競り落とすには度胸が必要
中橋睦男
トップページ > ニュース > 2011年3月 > 越前がに海産物の王、うま味格別 若越おさかな食文化誌
「越前がに」は標準和名ズワイガニのオスに対する当地での呼び名である。ズワイガニのメスは「せいこ」と別名で呼ばれ、卵を持つ「背負い子がに」に由来し、「せおい子」から、さらに短縮されて「せいこ」となった。ちなみに山陰地方では、ズワイガニのオスを「松葉がに」と呼ぶ。
古事記に、応神天皇が、山城の小幡村(こはたのむら)で美麗な乙女矢河枝比売(やかはえひめの)命(みこと)と出会い、食事をしたときに「この蟹(かに)や いづくの蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ いづくに到(いた)る…」と詠まれたとある。ここに登場する「角鹿(敦賀)の蟹」を越前がにと結び付けたいところだが、古事記が編纂(へんさん)された八世紀初頭の漁獲技術では越前がには捕れなかったであろう。それでも越前とカニを結びつける話として興味深い。
漁具・漁法の発達を考えると、カレイなどの底魚に混じって越前がにが漁獲されるようになったのは中世以降であろう。室町時代、京の公家に若狭から大蟹が贈られたとの記録がある。この大蟹は越前がにであったと思われるが、確証はない。
江戸時代の小浜の様子を伝える「稚狭考」(一七六七年)に「蟹は仲哀の御製にありて越前に名あり、本国にありても越前沖に鰈(かれい)を網し、後にて其(そ)網に懸(かか)り来て賞せらる」とある。仲哀天皇の御製は間違いで、先に示した応神天皇の御製のことと思われるが、カレイと一緒にカニが捕れたという。「日本山海名産図会」(一七九九年)の若狭鰈の項に「海岸より三十里ばかり沖にて捕るなり。其(その)所を鰈場といいて若狭、越前、敦賀、三国の漁人ども手繰網(てぐりあみ)を用ゆ。…網中に混り獲る物蟹多くして尤(もっとも)大也(なり)」とある。これらは間違いなく越前がにである。
江戸時代には、各地の名産品が幕府へ献上されていた。越前がには越前福井藩の名産品にもかかわらず献上されていない。それは、越前がにが塩蔵品や乾燥品に加工できないこと、加えて、鮮度低下が早く、品質を確保しつつ遠路運搬できなかったためと考えられる。
幕末、大野藩の役人がズワイガニやセイコを浦から買い上げたという文書が残っている。当然のことながら、地元ではそれなりに流通していた。
第二次世界大戦後、しばらくの間、豊漁が続いた。これは戦時中に漁獲できなかったことが幸いし、資源量が増大したためと思われる。その当時「せいこ」は子供のおやつであったと聞く。うそのような話である。だが近年、漁獲量は激減し、値段も高くなり、陸(おか)のマツタケと同様、高根(値)の花となった。
越前がに資源を保護するため、漁獲時期の限定など、できるだけ資源にダメージを与えないように配慮がなされている。十一月六日はカニ解禁日。高値のため買うことはないのだが、それでも初競りを心待ちしている。(文と写真、吉中禮二・県立大生物資源学部教授)