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中瀬康雄
トップページ > ニュース > 2006年1月 > 開高健さんうならせた”カニ丼” 広まる「海の宝石箱」
「雄のカニは足を食べるが、雌のほうは甲羅の中身を食べる。それはさながら海の宝石箱である」。(開高健全集「越前ガニ」より抜粋)
一九六五(昭和四十)年十二月の雪降る武生駅。作家、開高健さんが降り立った。グレーのハンチング帽にハーフコート。その年、従軍記者としてベトナム戦争の最前線を取材。疲れをいやす旅だった。
福井県越前町梅浦、こばせ旅館の長谷政志さん=当時(33)=が軽自動車で迎えた。「偉い先生でしたから緊張してました。でも助手席に乗られて、ジョークを交えながら気軽に話し掛けてくれた」。
一日目はズワイガニとセイコガニを出した。「むしゃぶるように食べていた。次の日の食事。何がいいかを尋ねると、何でもいいよ、といわれた。迷いました」。思いついたのが自身が小さいころに食べたカニ丼だった。
直径三十センチ近くある越前焼のどんぶり鉢を準備した。ご飯を入れ、セイコ七匹分の身を載せた。開高さんは、はしを鉢に持っていき、一口食べて「うーん」とうなった。数口食べて「なるほど」。終わると大きな腹をたたき、うめくように「満足」と言葉を発した。
「先生は胃袋が大きかった。あっという間。七回ほどいらっしゃってますが毎回、同じように食べていた。朝、日本酒を飲みながら、ということもありました」
「赤くてモチモチしたのや、白くてベロベロしたのや、暗赤色の卵や、緑いろの”味噌”や、なおあれがあり、なおこれがある。これをどんぶり鉢でやってごらんなさい」(同全集)と記されている。
しかしカニ丼の名前はなかった。「メニューにも載せなかった。でも、常連のお客さんの間で少しずつ広まってました」。一九九一(平成三)年の三回忌。鎌倉の墓前にカニ丼を持っていった。「最初に先生に出した気持ちを忘れたくない」との思いからだ。「開高丼。やっと名前が決まりました」と報告した。今、丼はカニのシーズン中、百杯ほど出る。東京などのマスコミ各社が取材する。
「越前ガニが全国の人に広まる。うれしいですね」と七十一歳になった長谷さん。開高さんの命日の九日、鎌倉へ墓参りに行く。墓石は長谷さんが越前町厨で見つけたものだ。墓の周りには、長谷さんが送った水仙の花が咲き始めた。